ホームレスから父に成る!

ホームレスだった男の育児と日々の雑感

ベルフェゴールへの返答

今朝、別れ話が喉元まで出かかるが
軽々に口にすることではないと呑みこんだ。




昨日の昼
昼食のため帰宅するも
かみさんと子らは福祉センターか何かに遊びに行っている様子。


昼には帰るはずだと
昼食を整えようと食材を見る。


すると、買ってから4日めの
かぼちゃとジャガイモが手つかずである。


私は落胆した。
また食材を腐らせる気だろうかと。


私は昼食を諦め
湯を沸かして、かぼちゃを切り
砂糖、塩、醤油、みりん、だし汁を入れて
かぼちゃを煮る。


煮ながらジャガイモの皮を剥く。
かみさんと子らが帰ってくる。


そろそろ休憩終了の時刻だ。


私は白飯に卵を落とし
醤油をかけて胃に流し込んで仕事に出る。




その晩かみさんは
かぼちゃがあるのに気づかなかったという。


私は言葉もなく
風呂に入った。


風呂から上がると
かみさんが言う。
「なんで子供を産んだんだろうと悩むときがある。」


この台詞を
かみさんから聞くのは2度目だ。


子らを前にして
その台詞を吐いて見せるかみさんの無配慮に
私は落胆した。


「なぜ生まれてきたのか
 生きることに幼い頃から悩み続けてきた
 俺の自問に似ている。」


私が言うと
かみさんは食後に注いだ熱いコーヒーを口にした。




そして今朝
8時にかみさんが起床。


かみさんは深夜2~3時まで
スマホで遊んでいるから起きれない。


専業主婦で夜遅くまでゲームに耽り
朝に旦那や子らより遅く起きてくることを
私の感覚では疑問符が付く。


3歳児が曰く
片付けをするかみさんが「めんどくさい」とこぼすらしい。


子の前で「めんどくさい」とこぼさば
当然に子は片付けがめんどくさいものと覚える。


「きれいになると(片付けると)気持ちがいいね」と声がけしてほしいが。





昼食を取りに帰ると
かみさんと子らが幼稚園から戻った。


かみさんは
かみさんなりに頑張ってくれている。


私の思う通りが唯一絶対ではないし
完全無欠で正しいわけでもない。



例え食材を
何度もうっかり腐らせようとも


例え子らの前で
無配慮な言葉を吐いても


例え夜通しスマホで遊んで
朝に起きられずとも


例え彼女の行動に
何度も落胆しようとも


それが何だというのだろうか。


1歳児と共に
ソファで笑うかみさんを見て
思い直した。


私が、私の理想とする母親像を
彼女に押し付けていたのだと。




親は、最初から親として存在しない。


子の成長とともに
親も親として成長していく。




もしベルフェゴールが私の前を横切るなら
私はこう声を掛けよう。


「私は結婚して幸せだ。
 なぜなら、私自身の行いを省みさせてくれる
 家族がいるからだ。」


自身の行いを省みることで
社会に生くる人間としての成長をさせてくれる。


私を成長させてくれる
かみさんと子らに伝えよう。


ありがとうと。




3歳児とデジカメ

3歳児は2歳後半の頃より
スマホのカメラ機能で
画像を撮るのが好きだ。


カシャカシャとやり
自分で撮った壁の画像や
指の画像を見てはきゃきゃきゃと笑っていた。



先日に職場に3歳児が入り込み
私の机の引き出しを探検のような雰囲気で開ける。


引き出しは前任者がペンや定規など備品を
ごちゃごちゃと入れたままにしており
何が入っているか私自身も全てを把握していない。


その中から3歳児は
デジタルカメラを発掘する。


「これ、、?」
「ああ、それはデジタルカメラだよ。」


「もらっても、いーい?」
「ダメだよ、仕事で使うんだから。」


仕事の画像は全て自前のスマホで撮るので使わないが
備品を子に与えるわけにはいかない。



「家にデジタルカメラあるよ。
 おっかー持ってるはずだから貰ったら?」


私が言うと3歳児は目を輝かせ
急いで家へと戻った。




いまどき画像はスマホで撮る。
かみさんもデジタルカメラは使っておらず
3歳児の要望を快諾してくれたようだ。


3歳児はとても嬉しかったようで
かみさんと皮膚科に行く道すがら
カシャカシャとやっていたようだ。


退勤し帰宅すると
バスの中で対向車を撮ろうとして
タイミングをことごとく逃し
道路しか映っていない画像が多い。


撮ろうと思い立ってから電源を入れるので
被写体を映すのに間に合わなかったのだろう。


それでも3歳児は
撮った画像を嬉しそうに私に見せてくれた。


私は3歳児の頭を撫でて言う。
「面白く撮れてるね。」


3歳児は笑顔に輝く。




就寝前
3歳児が生まれる以前に私が買った
写真集を見たいと言う。


私は美術書や写真集が好きで
ホームレスになる前は
学生の頃から様々に集めていたが


今日では新たに買った


写真集の4~5冊になってしまった。




彼が私の元に持ってきた写真集は
鉄骨や鉄パイプが入り組んだ巨大工場の写真集だ。


デジカメを持たせた日に
写真集を観たがるなんてと
やや面白く感じ


20時30分(通常の就寝時刻は20時)ではあったが
彼と一緒に写真集を観た。




21時なんとか就寝の床に就くも
もぞもぞと落ち着きない3歳児


3歳児は1人起き上がり寝室を出る。


少しもしないうちに
カシャっという音と共に
フラッシュの光が居間から何度も零れる。


かみさんが慌てて声を殺しながら3歳児を注意する。
「何やってんの!寝なさい!」


かみさんの声はシャッター音にかき消され
フラッシュが壁を白く照らす。




「写真集に、夜の工場を映した写真があったんだよ。
 夜に画像を撮ったらどうなるか、試したかったんだろう。」


私が言うとかみさんは無言で頷いた。


「何やってんの!寝なさい!ではなく
 どうしたの?寝る時間だよ?と声がけしてほしい。」


頭ごなしに親が寝る時間を押し付けるのではなく
みんなが寝る時間なのに起きている理由を訊いてあげてほしい。


それだけ伝えると
かみさんは息子に寄り添った。




翌朝
かみさんが私に朝の挨拶と共に言う。


「デジカメが起動しなくなっちゃった。」


レンズのあたりにぶつけた跡があり
形がほんの少し歪んでレンズが出なくなったようだ。


使っていないデジカメがもうひとつあるので
かみさんはそれを3歳児に渡した。






私は荷解きしていない段ボールから
アドラーに関する本を6~7冊と
孟子を1冊だけ取り出し、かみさんに手渡す。


「これ全部に目を通しておくように。」
「え、、!」


絶句するかみさんに
私は冗談だよと伝える。


「この2ページだけは読んでおいてほしい。」


私は勇気くじきが箇条書きされたページに
栞を入れた。




クリスマスまで
あと1週間もないことに
いま気付いた。


実質的に今回が初めての
クリスマスになる。


さてどうしたものか。


かみさんと相談しよう。
そうしよう。


ありがとう。




かみさんの、愛と怒りのアイアンクロー


かみさんが以前に買ってきた
猫の玩具がある。


猫が乗ることができる台で
タワーというには小さい。



3歳児が
これに乗っては飛び降りを繰り返している。


この猫台の柱はネジ1本程度で止められており
3歳児が乗る度に折れてしまいそうだ。



「危ないからそれに乗らないでください。」
かみさんが3歳児に注意する。


「なんで?」
3歳児は注意を聞き入れず
猫台に上ってはドアに向かって飛ぶ。



「折れるから!やめろってば!」
かみさんの語気が強まる。


「やめないもーん。へっへーん。」
3歳児の「へっへーん」の使い方は機関車トーマス流だ。



「やめろって言ってんだろ!折れるから!いい加減にしろよ!」
かみさんが3歳児の顔を鷲掴みにし

ギリギリと指に力を込める。


「痛い!痛いよ!やめて!やめてよ!」
3歳児は泣き出し悲鳴を上げた。






ちょうどいい高さの台から
飛び降りて遊びたい3歳児。


猫台が壊れること、3歳児がケガをする心配から
怒りと痛みを与えて制する母親。




私がすべきことは何か。


ふざける3歳児を怒って見せるか。

かみさんの行為を叱責するか。


私はどちらもせず

ただ、静観する。




3歳児の泣き声を聞きつけた私が居間に来たことで

かみさんは慌てて3歳児を優しく抱きしめ

頭を撫でた。


それが悲しかった。




体罰、死刑、戦争

それらは目的への手段であり

私はそれを否定しない。


然し、それらが濫りに

権力者(この場合は親)が規律なく行うなら

それを否定しなければならない。




今回のアイアンクローは

躾と見るか、暴力と見るか


私は躾に

痛みは必要ないと信じている。


親が親として未熟なとき

子を納得させる説明が出来ず

子に時間を費やす手間を省くために

痛みを与えて従わせようとする


私は体罰をそう考えている。

謂わば「親の手抜き」だ。


教師の体罰はまた別だが。




次の日、私は猫台を

居間から玄関に移した。


3歳児は

飛び降りて遊ぶことをしなくなった。


かみさんも猫台への登り降りで

怒ることも無くなった。



こんな簡単なことで

みんなしあわせ。


ありがとう。