ホームレスから父に成る!

ホームレスだった男の育児と日々の雑感

無宗教は、宗教に肯定的か否定的か

私は無宗教であり、信仰を持たない。


信仰を持たないが
さまざまな歴史上の人物や
宗教指導者、架空のキャラクターに至るまで
思想的に共感・信奉することは多くある。


優れた考え方であれば柔軟に取り入れ
世俗的ヒューマニズムをもって私は心的に成長をしたい。




以前より
年齢や性別を問わない人の出入りが多い住居をして
ご近所さんらが不審に思っているのを
少なからず耳にしていた。


最近になり、ご近所さんの1人が
出入りする人に声掛けし
どのような集団なのかを訊ねた。



すると、上記記事中にある宗教のひとつだったと
ご近所さんは話す。


一言で言えば彼らは「不気味」だが
何か問題を起こしたわけではない。




90年代
オウム真理教の地下鉄サリン事件
ライフスペースのミイラ化事件
法の華三法行(最高ですか!)の詐欺事件


他にも様々に新興宗教による事件の記憶があり
新興宗教に対し警戒感を持たざるを得ない。





しかして、宗教には肯定的でありたい。


無宗教にも2種類あり
宗教を肯定的に受け止めるものと
否定的に扱うものがあると私は考える。



クリスマスや正月
冠婚葬祭も広義では宗教行事だろう。


これらを宗派を問わずして
ともに喜びや悲しみを分かち合うことができる精神を
私は肯定的無宗教としたい。


対して宗教行事の一切を
無宗教であることを理由にして
忌避する向きを否定的無宗教としたい。


ひとつの宗教が
その他の宗教の信仰や様式を否定するものであれば
それは否定的無宗教とニアリーイコールで結ばれると私は見る。


故に、否定的無宗教であるなら
「無宗教も宗教」に陥ってしまう。




世界が平和に導くのは何だろうか。
愛か、金か、政か、法か、神か、絆か。


私はこれまで、世界に平和をもたらすのは
「清浄で自由闊達な情報の流通」だと考えていた。


しかしそれは「標」に過ぎず
世界平和に真に必要なのは「標による理解」であると
最近になり思うようになった。


故に偏向報道によって
ベクトルを作り出さんとする
マスコミを私は好かない。




相手を知らなければ「不気味」にも感じ
不気味であるから否定的にもなる。


偏見や歪みのない情報(標)を得て正視し
その存在に寛容と理解を示せる人でありたい。


私が原稿収入で糊口を凌いでいた頃は
政治や宗教や人種を絡めた破壊的な物語を考えていたものだったが。




私自身が、子らに対しての「標」となれるよう
だいぶバイアスはかかっているが
できるだけ中庸でありたいと思っている。


ありがとう。